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面白かったことを、ふつうに、ちゃんと、ていねいに。

「見切る」ことができるか いまの調子を把握するための計測器

自分に一番近いものが、意外に一番わからない。

よく言われることだけど、ふとした機会に実感しては、そのたびにハッとさせられます。自分がいまどんな調子かを把握することは意外と難しい。それをすぐに忘れてしまう、自分を例外だと思って。

羽生さんの言葉「見切る」

羽生善治『直感力』(PHP新書, 2012年)を読んでちょうどこんな文章がありました。

 対局中に、自分の調子を測るバロメーターがある。それは、たくさん記憶ができているかとか、パッと新しい手がひらめくかといったことではない。
 そうではなく、「見切る」ことができるかどうかだ。
 迷宮に入り込むことなく、「見切って」選択できるか、決断することができるかが、自分の調子を測るのに分かりやすいバロメーターとなる。

(p22より)

いま、状況を「見切る」、判断する、決断する、次のアクションに躊躇なく移れる、それができるときは調子が良いということ。反対に、悩んでしまって先に進まない場合はあまり調子が良くない。

ちなみに将棋の世界では「長考に好手なし」という言葉がある。「4時間長考して結局は平凡な手が出てきた。本当は3秒で指せた手だった」ということもしばしば起こるそう。

足るを知る

京都の龍安寺に「吾唯知足(われ ただ たるを しる)」という有名な言葉があります。庭の石に刻まれていて、いま調べたら、その石は正確にはつくばい(庭の手水鉢)というらしい。言葉自体は禅語のようで、もともとは老子から来ているようです。

最近、この意味を考え直していて、それがそのまま「見切る」に通じる。

これまでは、「欲にキリはないけど、今あるもので十分だよね」という意味――つまり、現状に満足するための清貧の言葉だと思っていた。

いまは、「これから始めるのに必要なものは、今あるもので十分だよね」、つまり、何かを始めるときに条件は既に揃っている、という意味として捉えている。

前者は自分の持っているもので満足していかに欲を抑えるかに重点を置くのに対し、後者は今ある選択肢に神経質に悩まず状況を「見切って」一歩を踏み出すことに重点を置いている。

本当のところは違うかもしれないけれど 笑

迷いと決断は常に背中合わせ

「見切る」、もちろんそうできたほうが良いです。
ただ、ともすると「見切り続ければいいのだ」と安易に考えてしまう。「俺は瞬間的に判断し続けられるぜ」と。あるいは「なぜ自分は決断できないんだダメだな」と。羽生さんほどの人が、わざわざ「見切ることができるかは自分の調子を測る一つのバロメーター」と言っているのは、それが自分の調子と依存関係にあり、「見切り」続けることがいかに難しいかを分かっているからだと思う。

仕事や生活の中で「見切る」ことができなくなってきたとき、前面に立ちはだかる迷いと戦うよりも、それを一つの尺度にして、外に放っておいた自分の体調や気分、調子に目を向け、調子を整えることに注力したほうが効率がよい。そういうふうに考えたい。

それでも忘れる日常

さて、日常はいつだって奇跡的に成り立っていて、いつも危うい。自分の調子がおかしいとき、こんな話を思い出してもいいのではと思うんです。

今回の書籍

直感力 (PHP新書)

直感力 (PHP新書)

書きながら考えたこと(エントリーメモ)

  • この『直感力』は新書ということもあり、とても平易に書かれていてサラッと読み流してしまえる。言っていることも一般的。ただ、行間に目を凝らすとどうもいろいろな言葉が隠れているような気がする。羽生さんがわざわざ書いた普通のことは、重要な、見過ごしてはならない特別な「普通のこと」なんじゃないかと、思ってしまう。
  • 直感的の反対は論理的。通常、生活の中で私たちはカシコく判断し、たまに直感的になる、それが一般的なイメージではないか。実は私たちは95%ぐらいを直感で生きていて、残りの5%ぐらいを論理的に考えているのではないかと、ふと思った。行動経済学の分野なのかな、これは。
  • あれ、禅と老子って関係あったっけ…?